11月24聖日礼拝

  「神の前にかぐわしいキリストの香り」

                   山川高平牧師

 

聖書箇所:私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

                  Ⅱコリント215

 

かぐわしい香りを嗅ぐ時、その時感じるのは純粋さではないでしょうか。潔さというものに近い。色々なものが混ざった香りはその通り、色々なものを感じさせます。2コリント2章の中心テーマは、純粋さです。この箇所では、私たちが純粋さを保つべきであることが語られています。キリストの教会は、どこまでも純度の高いものでなければならないのです。そのために整えられているわけであります。教会は、皆さんにとってどんな場所でしょうか。教会を組織として、会社のように考える傾向もありますし、幼稚園や学校のような場所として考える傾向もあります。そうなると組織としてのマネージメントが必要になります。会社でさえこれだけのことをやっている、今時学校や幼稚園でさえこれくらいのことはやっているのに、教会は、、、という傾向です。そうなるといつの間にか伝道が社会の基準に合わせるような教会の行事となり、礼拝までもが人間の要求に答えるべきであるかのような教会の行事になり、キリストの教会ではなく、人の集まりやすいコミュニティセンターになり得るのです。皆さんは何のために主を愛し、主を礼拝するのでしょう。私たちは、聖霊によって導かれ、聖霊によって教会として建てあげられました。

ここは主の宮であり、皆さんも、聖霊の宮です。聖霊は、主の思いを教え、語り、祈らせてくれます。教会は聖霊によってたちます。だから、中心にあるのは主の思いであるべきです。キリスト者の心臓部分は、礼拝です。だから、生活から礼拝を取り除けば骨抜き状態です。サタンの一番の攻撃カ所は、礼拝を取り除かせることです。イスラエルも幕屋を中心に生活しました。礼拝が中心でした。その礼拝を取り除いた時、幕屋を取り除いた時、力を失いました。しかし幕屋を立て直した時、力を取り戻したのです。幕屋では絶え間ない礼拝が捧げられていました。人間の都合によってアレンジをする余地はありません。なぜなら中心にある礼拝の目的を知っていたからです。それは神が喜ばれることです。神の喜びが私の喜びだったのです。私たちも、人が受け入れやすいようにアレンジを加える必要はありません。これは形式云々ではなく、心の問題です。主を愛し、慕うなら、別に聖歌だろうがワーシップソングだろうが、バンドだろうがピアノだけだろうが関係ないのです。本当にキリストを信じ慕い求めるものは、純粋です。その香りはあの人この人にとっては、、なんてことは関係なく、「神の前に」かぐわしいキリストの香りなのです。他の誰でもない、キリストの香りは神に感動を与えるものだからです。そのためのものです。ましてその香りはある人にとっては死から出て死に至る香りです。そのことに焦って、ああこれはまずい香りだ、つまづきだ、だから覆い隠さなきゃ、と言って私たちがアレンジしてはならないのです。私たちはこの言葉に信頼をもっとおくべきです。そもそも、そういう香りなのです。でもある人にとっては、命に至る香りなのです。みことばに混ぜ物をして売ることのないようにしましょう。この純粋さをはっきり打ちたて、キリストの花嫁として純度を高く保ち、火で洗練主だけをお迎えし、主の居心地を良くするために自らを砕いて捧げていきたものです。

 

次週礼拝: 「7つの教会へ」 ヨハネの黙示録1:9-20  山川明美牧師

                                更新:I.nakamura

 

 

10月13日聖日礼拝

            

             「悪に打ち勝つために」

                            山川 明美牧師

  聖書箇所:ローマ人への手紙12:9-12

 

 自分をからっぽにして、主の霊で満たしてと願うでしょうか。満たすものが信頼して余りあるものなら。その価値があるなら満たされてもよいと思うでしょうか。本当なのか、どうなのかわからないものを満たしてと願うことなど出来ないものです。

 自分をからっぽにするなど、恐ろしくてできないものです。自分のたくわえてきた、培ってきた人生を空にして良く知らないものを期待するなど出来ません。自分の知性で理解せず、「受け取ります・・・」など宗教臭いだけです。理解せず、空になどできません。

 なんだか上から力が降ってきてキリストを感じたのでしょうか。誰かに強いられたのでしょうか。うさんくさいものならやめておいたほうが良いです。

 第一コリント5:2『あなたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたことの福音によって救われるのです。』

 イエス・キリストという人格の態度、振る舞い、行いを良く考えて信じ、そのお方なら空にしても大丈夫と知ったからです。イエスという方が信頼できるかにかかっているのです。

 人が神経を弱らせるの最も大きな影響力は罪責感とある学者が語ります。この罪責感をぬぐい去るために根こそぎ抜き去るために死なれ、赦すため甦えられました。(第一コリント15:4)これが福音(ゴスペル)です。

 罪人が赦され正しいと認められ、神の前に出るなら平和があります。赦しは平和を作り出します。

 正しくない者に怒りが下るのは当然です。自分の何が悪いのかと、罪を握り続けるなら、そこには怒りが積まれて行きます。神の忍耐がある事を認めないで福音を拒むこともできます。しかし福音を知って信じたなら、憐れみの器です。(ローマ11:32)

 そもそも良いものが何も出てこない器の中にはねたみ、怒りが溢れています。捨て去りなさい、からっぽになりなさいと言われても、捨て去ることなど私たちは恐くて出来ないのです。これが自分を支えている力だからです。神に逆らう歩みは苦しいです。憐れまれるとは、プライドと対極します。しかし憐れみの器は人のことに振り回されないのです。

 復讐は私のものだと主は言われます。プライドの後ろに隠されている復讐心が降参する時、憐れみの器に造りかえられます。憐れみの器には平和が臨みます。人の人生、やられたらやり返す。しかし、主は「善を持って悪に打ち勝ちなさい」と命じられました。その理由はどこにあるのでしょうか。

 その命はキリストの十字架によって贖われた命だからです。

 愛するという実を結ぶためキリストは私たちの何でも求めよと語られました。(ヨハネ15:16-17)キリストの約束です。求めなさい。求めなかったら私たちは何も出来ないのです。聖書の命令を生きることなど出来ないのです。求めて得て約束を受け取るためです。今まで見たくないこと、やり過ごしてきたこと。そこに向き合って初めて大きな苦痛が始まるでしょう。主は助けてくださいとの祈りを求めています。悪に打ち勝ち実が実っていくのです。 

 

次週礼拝

    宣教「主を畏れる人々」 箴言15:28-38 山川 明美牧師

 

                          更新:I.nakamura

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9月1日聖日礼拝

           「決して離れることなく」

                          山川 明美牧師

 聖書箇所:ルツ記1:1~16

 

 

 ルツ記は、異邦人のルツとユダヤ人のボアズとの麗しいかかわりがテーマです。やがてその子孫からイエス・キリストが誕生します。

 夫を亡くした嫁が、姑と別れたくないとと言う。ルツ記はそんな残された女性たちのやりとりから始まります。そもそも彼女たちが男たちに取り残された地は、故郷を遠くはなれた異国の地でした。ナオミには二人の息子がいました。しかし二人とも、妻を残して逝ってしまったのです。そのモアブの地に彼女たちは何故暮らしていたのでしょうか。

 イスラエルの飢饉を逃れ、しばらくの時を生きるためでした。しかし、その時間は十年もたっていたのです。つまり腰を据えてしまったということを示します。一時の滞在のつもりが、いつの間にか定住しているということです。ロトがアブラハムと分かれてソドムの近くに住んでいたはずだったのが、ソドムが滅びる時彼らはその真中に住んでいたことを聖書は示します。(創世記19:1、12~17)また、バビロン捕囚の民が、主が故郷エルサレムに戻れという命令を告げても、生活の基盤からはなれない者たちもあったことも歴史の語るところです。初めは一時的。しかし次第に根をおろして行ったのです。

 そこにはナオミの息子たちの死と深く関係があります。世に根をおろす者は死に向かう警告を表すものです。ナオミは二人の嫁に異邦の故郷へ帰れと促しますが、3回のナオミの言葉すすめに、決して言うことを聞かなかったのはルツでした。4回目、つまり3回の促しに屈せず4回目にはルツは告白するのです。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(16節)

 彼女はイスラエル民族のナオミから決して離れないと告白します。この告白は、夫婦が一つになる(創世記2:24)と同じ意味を持っています。彼女は献身をしたのです。夫の死は、自分の死を意味していました。彼女はそこから出て命にしがみついたのです。ルツ記のテーマに「夕があり朝があった。」(創世記1:13)のテーマが重なっているのです。朝焼けの希望です。

 どんなに死が私たちを覆っていても、そこから主は脱出させてくださるのです。死から命にしがみつくものにその道を与えてくださいます。ルツは冒頭に記したように、ナオミの故郷イスラエルでボアズに出会い、後にイエス・キリストが誕生します。彼女が決して死の中にとどまらず命にしがみついた結果でした。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)命の手綱を手放されない道をひたすら歩みたいものです。そして、ルツを通して、キリストの奥義が啓示されていたのです。「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束に与るものとなるということです。」(エペソ3:6)

 本来、受けるべき資格のない者が受け取る恵みです。そして、数に数えられないような者を主は用いて、最も素晴らしい主の計画に参与させてくださるのです。あなたは今日イエス・キリストにしがみつき、決して離れないとこの方と生きるべきです。

 

次週礼拝

   「覆われた者の幸い」 ルツ記3:1~16  山川明美牧師

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◆HPメッセージ更新者より◆

 この箇所に載せるメッセージは、当教会の山川明美・高平両牧師のみとさせ         

 て頂いています。特伝や他教会の牧師、神学生などが担当した宣教メッセー

 ジは、本人の許可を得ない限りは載せません。そのため、何週か更新されて

 いない時がありますことをご了承下さい。     (文責I.Nakamura)

 

 

 

 

 

 

 

 

8月18日聖日礼拝

            「たといそうでなくても」

                            山川 明美牧師

 

   聖書箇所:ローマ人への手紙9章

 

「もしできることなら・・・このわたしが・・・呪われた者となることさえ願いたい。」使徒パウロはこのローマ人への手紙前半部分8章で神様の愛の素晴らしさ、イエス・キリストによって救われることの素晴らしさを語ります。そしてその喜び感動が極みに達したその直後に不思議なことにこのパウロは、私はどうしようもなく大きな悲しみがあり絶えることのない痛みがあるのだ、と告白します。

 それはこの素晴らしい神様の愛、この素晴らしいイエス・キリストによる救いをどうしても受け入れようとしない人々がいるからだ、と彼は言います。同胞であるイスラエル人に対して本当に深い思い、大きな悲しみ、絶えず押し寄せる痛みのような思いがあると言うのです。

 パウロは今は既に御子による完全な義が実現し、またイスラエル自身はその救いを頑なに否定しているけれども、彼らは大切な役割を本当に長い間担ってきた神の器なのであり、全ての恵みを受け取るべき民族だと語るのです。

 心をこめて差し出された神様の愛、命がけで差し出されているこのイエス・キリストによる救いを受け入れようとしない人々にも何とかして知ってほしい、どうにかして受け入れてほしい。先に救われた者としてのパウロの深い思いがこのことばには示されています。

 そしてこのパウロの思い、パウロの深い愛は、呪われた者となって十字架にかかって彼らを救おうとしてくださったイエス・キリストによるものだと聖書の御言葉は教えています。私たち人間は誰かの罪の身代わりになったり神様からのさばきを誰かの代わりに身に受けることはできません。しかしイエス・キリストは私たちの罪のすべてを身に背負い、神様の怒り、神様からの呪いのすべて、さばきを受けてくださったと聖書は教えています。

 呪われた者となることさえいとわず十字架にかかることさえいとわなかったそんな深い愛であなたは愛されている、聖書はそう教えています。この深い愛を知らされた時、人の人生は確かに変わり始めます。そして今あなたにも差し出されています。

 

次週礼拝

 「わたしが道であり 命であり 真理です」ヨハネ14:6 山川高平牧師

 

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             ◆HPメッセージ更新者より◆

 この箇所に載せるメッセージは、当教会の山川明美・高平両牧師のみとさせ         

 て頂いています。特伝や他教会の牧師、神学生などが担当した宣教メッセー

 ジは、本人の許可を得ない限りは載せません。そのため、何週か更新されて

 いない時がありますことをご了承下さい。     (文責I.Nakamura)                     

 

8月11日聖日礼拝

      「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」

                      山川明美牧師

マタイ3:7〜12

 

 

神様はバプテスマのヨハネを先駆けとして遣わし、ユダヤの荒野で次の言葉を叫ばせました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ32節)「悔い改めること」、これが、イエス・キリストのご到着を待ち望む時に、私たちに基本的に求められている心構えです。

 

パリサイ人は聖書の教えを厳格に守る人々でした。しかし、厳格さという鎧は彼らをイエス様から偽善者と呼ばれて非難される宗教家としていたのです。

 

儀式を重んじ、長い祈りをしていましたが、その裏で、彼らはやもめたちの家々を食いつぶし、お金が好きでした。(マタイ2314、ルカ1614)彼らにとって富を手放すことはとてもできない相談でした。

 

また、サドカイ人はパリサイ人とは反対に、聖書の教えに捉われない人々で、大部分がエルサレムに住んで神殿とその運営を第一の関心事としていました。ですから祭司階級に属する人々が多かったのですが、実は、復活や、天使や、聖霊や、裁きや、永遠のいのちの存在を否定する無神論者でした。神殿に係わる人々が最も世俗化しているなんて、信じ難いことですが、考えてみれば当たり前のことです。サドカイ人は神殿に係わる事によって、そこから得られる権力を手放したくなかったのです。(使徒517

 

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このような偽善者パリサイ人と無神論者サドカイ人に対して洗礼者ヨハネはなんと呼んだでしょうか。ヨハネはこう言ったのです。「マムシのすえたち。誰が必ず来る御怒りから逃れるように教えたのか。」

 

マムシとは悪魔のことです。パリサイ人とサドカイ人は自分たちが悪魔の子孫だと、ヨハネによって図星を指され、ぐうの音も出ませんでした。悪魔は地獄の消えない火で焼き尽くされます。同じように、自分の一番隠しておきたい罪を告白しない人は皆、パリサイ人やサドカイ人と同じ類で、悪魔の子孫であり、地獄の消えない火で焼き尽くされてしまいます。そののろいからの解放をヨハネは示したのです。

 

 多くの人は、自分とは関係ないと思っています。しかし、捨てなさい、放棄しなさい、そして人生に豊かな実を結びなさい。と招きます。イエス・キリストは聖霊と火によってバプテスマを授けると語ります。そのキリストを信じ、水のバプテスマを受けるものに、聖霊が力を注ぎ、私たちの人生を火によってきよめると導くのです。

 

イエス様は柔和で優しい神様です。愛と恵みを持って私たちの人生を導く方です。イエス様に全て委ねる時、悔い改めにふさわしい実を結びます。

 

悔い改めるとは、自分をイエス・キリストに委ねる事です。安心して身を任せることです。主はあなたを愛し、喜ばれます。あなたの手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせ、そして肥えた子牛を引いてきて、それを屠って祝宴を開いてくださいます。主の心を味わう人生に喜びは尽きないのです。愛がわからなくなったのなら、私たちを訴える者の声に負けてしまうでしょう。しかしこのかたの愛と喜びを知ったなら、自分の肉に捕われないで歩むことが出来るのです。キリストの愛の中に入って行きましょう。この中で愛、喜び、平安の実を結んで行くのです。

 

次週宣教:「たといそうでなくても」 ローマ:1~33        山川明美牧師

 

 

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8月4日聖日礼拝

         「最初に学ぶべきこと」

                       山川明美牧師

聖書箇所:箴言1:2〜7

 

 ソロモンはイスラエルの王の中で最も偉大な王であるダビデの子どもです。彼は父の影響を受けてどの時代よりも平和な時代に、だれよりも豊かな人生を生きることができました。その中で父ダビデの信仰と祈りを学び、自分も祈りの力を体験していたようです。彼はまだ若い時に王とってこれからの統治をどのようにすればよいか不安だった時、神様に祈っています。

 「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてくだい。・・・」すると、主はその願いを聞かれ、彼に非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられました(1列王記4:29)。   

 その知恵によって代表的な知恵の文学と言われるこの箴言を書き残しました。

 また、彼は父ダビデの失敗を通しても大きな教訓を学んだようです。何人かの妻を持ったことで家庭内騒動はダビデを苦しめ大きな国内の謀反にまで拡大して行きます。ダビデは子どもたちに恵まれず、子どもが苦悩と悲しみの種になっていました。ダビデは子ども教育に失敗したのです。そこで、この箴言には「わが子よ。」と呼びかけているところが何箇所もあります。「わが子よ」と何度も呼びかけるソロモンは自分の子どもたちは信仰者としての父ダビデが神を畏れ貫いた姿と決して自分の兄弟を傷めることにないようにと思ったでしょう。

 私たちはイエス・キリストを信じることによって皆が同じく霊的には救われ、だれでも永遠のいのちを得ることができます。霊的祝福は同じと言って良いでしょう。しかし、現実的な祝福は私たちの生き方によって違います。私たちの行く所どこにおいても、主を認める人の人生と、自分を知恵のある者と思う人の人生は違うのです。もし、ソロモンのように、心を尽くして主により頼み、知恵を求めて生きるなら、神様はソロモンに与えられた知恵の心と判断する心、富とほまれ、長寿を私たちにも与えてくださす。しかし、いつまでも自分の感情、自分の習慣のとおりに生き主を畏れる人生を学ばないのなら、自分の理解を超えた神様の祝福を得ることはできないでしょう。どうか、私たちが箴言の学びを通して知恵と知識を求め、真に知恵ある人として生きるように祈ります。神様を第一にして神様を恐れる生活を通して現実的にもソロモンのように祝福されますように祈ります。

 2節〜4節には「これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。」と記します。ここに、ソロモンが箴言を残した目的があります。それは知恵と訓戒とを学び、理解し、体得することです。ここで、「体得」というのは「体験を通して知ること、理解して自分のものすること」です。ソロモンは自分が体験を通して知った知恵と訓戒を自分の子どもを初め、すべての人々も学び、理解し、体得するために、この箴言を書いたのです。では知恵、知識とはどんなものでしょうか。

 7節「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」ここの「初め」は、「第一」「最優先事項」と訳すことができることばです。世の中にはいろいろな知識がありますが、主を恐れることこそ、すべての知識の第一であり、最優先事項なのです。

 知識を積み重ねていく目的は何でしょうか。それは知識によってもっと豊かな人生、素晴らしい人生を生きるためでしょう。聖書は「主を恐れること」がそういう知識の初めであると言っています。ところが、「愚かな者は知恵と訓戒を蔑む」とあります。第1列王記12章をみると、レハブアム王は、父ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退けました。自分の気に入ることを言ってくれる者たちの言葉を取り上げたのです。「民のしもべとなって彼らに仕えるように勧めた助言」を捨ててしまったのです。結局、イスラエルはレハブアムの時に滅亡し、二つの国に分かれてしまいました。レハブアムに多くの助言者たちがいて多くの知識を得ることができましたが主を恐れず、知恵と訓戒を蔑んだ時に滅んでしまったのです。ですから、私たちの人生において第一の知識、最優先事項は主を恐れることでなければなりません。

 知恵の叱責に悔い改めるべきこと、それを拒む者は災い受けることを記しています。知恵が生きた人間のように叫んでいますが(20節)、それは比喩です。知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言います。私たちが耳を澄ましていれば知恵の声は聞こえます。自分の目の前にいる人が語っている言葉が実は主が語らせておられるかも知れません。時には、子どもを通して、主が語られます。日ごとの糧の御言葉、主日礼拝のメッセージを通しても主が語られます。そのような時、叱責に心を留めることが大切です。すると、主の霊が注がれます。聖書に「今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ。」とあります。叱責を受けて悔い改める人に聖霊を注いでくださるのです。すると、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。その心に生ける水の川、平和の川が流れ出るようになります。聖霊に満たされると、不思議にも喜びが満ちあふれるようになります。言葉遣いも変わります。口癖も変わります。聖霊の力が宿り、元気と勇気とやる気で生きるようになります。階段の上り下りもできなかった人でも元気になって歩き始めるようになります。しかし、忠告を無視し、知恵の叱責を受け入れないなら、どうなりますか。その人に災いが襲ってきます。恐怖が嵐のように、災難がつむじ風のように、彼らを襲い、苦難と苦悩が彼らの上に下ります。その時になって叫んでも、主が答えてくださいません。知識を憎み、主を恐れることを選ばず、知恵の忠告を好まず、知恵の叱責を、ことごとく侮ったからです。どうか、私たちが謙遜に神様の愛の声、知恵に耳を傾けて悔い改め、聖霊を受けて平安と力のある日々であるように祈ります。

 

次週宣教:「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」マタイ3:7~12

                       山川明美牧師

 

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7月28日聖日礼拝

             「王である祭司」

                          山川高平牧師

聖書箇所:第一ペテロ2:9

 

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。第Ⅰペテロ2:9

 

 自民党の圧勝に終わった選挙でした。早速阿部内閣は武器の輸出を認めさせようとしたり、原発を再稼働させようとしたり、憲法改定を進めようとしたりで、この 国はこれからどうなるのだろうという不安と、怒りが特にキリスト者たちの中から溢れているように思います。確かに楽観視はすべきではありませんし、無関心 であってもならないです。ただ、それと同時に、私たちに神が語られている事、聖書が語るところにおいて私たちはこの国でどのような立場、身分、役割がある のかを知るべきであると思うのです。

 

 13節に、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」と書いてあります。

 また、18節には「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」

こ れは今の時代には難しい言葉かも知れません。でも神様が国を動かす方法は、いつもダイナミックで、面白いです。あのエジプトにおけるヨセフやバビロンにお けるダニエルもそうでした。取るに足らない小さな器、しかし、神に忠実な器。その器はいつも主人に対して忠実でした。王の祝福をいつも祈っていたのです。 いつも不満と怒りと訴えとで満ちているのであれば、その国を変える神の計画にはふさわしくなかったでしょう。彼らは、本気で自分が今いる敵国を愛し、異教 徒の王を祝し、愛したのです。するとどうだったでしょう。その国の王をはじめ、国民全体に神の影響力が広がり、国が生きたのです。

 

 ただし、バビロンは滅びますね。なぜなら、イスラエルを滅ぼしたからです。神はすべての事を計画を持って、人間に自由を与え、なす事を許しておられますが、 悪は、必ず報いを受けるのです。悪とは、神を忘れ、離れる事です。エジプトも、ヨセフを知らない王、つまり神の恵みを知らない王がイスラエルに苦役を強い ます。そのとき、エジプトは大きな痛手を国全体に受ける事になりました。

 

 時代の流れ、社会の出来事、人が立つ事、失脚する事。災害、戦争、人が生まれ、死ぬ事。すべて、主のゆるしと、支配の中で起きる出来事です。ローマ書12章 には、その奥深い主の計画を誰が知り得ようか、と書いてあります。その事を、私たちは完全に悟る事はできないのです。実際、今の出来事を見て、主のゆるし があるとは思いたくない事がたくさんあります。ただ、間違えてはならない事は、すべて、悪に対する復讐と裁きは、必ず主がなされるという事です。その上 で、主はゆるしておられるのです。では、なぜでしょうか。それらの出来事が起きるのは、何の為でしょう。旧約聖書を読むと、いつの時代でも、主から離れた 民、主を知らずにいる民に対して、主は厳しく報い、そしてその手で回復 させ、そして、必ずこのように言われました。「そのとき、彼らは私こそ主である事を知ろう」と。つまり、すべての出来事は「主を知る」為なのです。主を知 り、主を慕い求め、主と関係を取り戻し、この国を、あなたがおさめるのです。おさめるのは、王の役割です。王である祭司、というのは、ダビデの事を言いま す。そして、イエス様もそうです。祭司は、神との関係を取りなす役割であり、王は、民を治めるのです。実際国が祝されるのに、リーダーが祭司的役割を全う できなければ完全ではありません。力を振るっても、知恵をふるっても、神との関係を損ねたら、すべてが崩壊するからです。私たちは主にあって霊的に、この 地上において王である祭司、聖なる国民、神の所有とされる特権、身分を与 えられるのです。

 

 ですから、私たちはこの身分にふさわしく、召しにふさわしく生きるべきです。そのふさわしく生きるとは、今日の箇所の後半に書いてあります。「それは、あな たがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」つまり、神ご自身が 闇から光に変えてくださる御業をこの国に表していく事です。私たちの態度を持って。生き方を通してです。言葉だけではなく、御言葉に忠実に、そしてこの国 を愛し、この国のリーダーを愛し、そして、祝福し、執りなし祈る事です。キリスト者が不安、不満、悲しみと怒り、それらに支配されるのではなく、私たちこ そ、悔い改め、主を愛し、主とともに、この国を治める霊的なリーダー として、執りなし手として、へりくだって仕えていくのです。ヨセフやダニエルが国に祝福をもたらしたように、私たちも自国でありながらある意味異邦人、異 教徒のこの国において、霊的な責任をもって神の言葉に仕えていくべきです。そしてすばらしい神の業を、この国に宣べ伝えて生きたいものです。

 

次週宣教:「最初に学ぶべきこと」  箴言1:2~7  山川明美牧師

 

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7月21日聖日礼拝

           「一つの群れ一人の牧者」

                            山川 明美牧師

 

    聖書箇所:ヨハネ10:11~16

 

 羊を飼っている様子は、日本人にとってあまりなじみのない深いものではありません。以前もお話したようにイスラエルの荒野では絵に描いたようなこの羊たちと、羊飼いの姿を見ました。

 イエスの時代、ユダヤで羊は、ごく身近な動物だったようです。日本人は、牧畜というと、なんとなくオーストラリアやニュージーランドなどで行われているような、広々とした牧草に数千匹の羊を放牧している風景を思い起こすのではないでしょうか。羊飼いは、たいてい羊の持ち主の子どもがすることが多かったようです。羊は彼らにとって大切な財産でした。とてもかわいがって育てていました。1匹1匹にそれぞれ名前をつけて呼ぶほどでした。また羊の方も羊飼いに良くなついていて、その言うことをよく聞いたのです。

 このような間柄でしたから、聖書の中に羊と羊飼いの関係を「神と民」「指導者と民」といった意味に使ったたとえ話が幾つか出てきます。

 悪い牧者のたとえ、(エレミヤ23:1)、また悪い牧者と良い牧者(エゼキエル34:1)、良い牧者(詩篇23)などがあります。新約聖書でも、失われた羊を探す牧者の姿(ルカ15:4)、羊と羊飼いのたとえを用いて話されるとき、羊は、ただ役に立つ動物であるばかりでなく、飼い主は1匹1匹の羊をそれぞれ知っていて、自分の家族か子どものように大切に守り、かわいがるのです。一方羊は、羊飼いは信頼し、安心しきって自分を任せ従っていきる姿です。

 これらのたとえは、神が私たちを”人間たち”と言った十把ひとからげの見方ではなく、私たち一人一人のことを良く知っておられ、それぞれを心にかけて、かわいがり、慈しみ深く愛しておあられるのだということを教えています。牧者は、特に迷った羊、教会から離れている羊をいつも気に掛け、とこしえに愛しています。マルコによる福音書に、イエスが「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊」と言われます。「迷える子羊」という言い方がありますが、迷ってしまったのですから、道案内である羊飼いを失ったとも言えます。では、飼い主を見失ってしまったら、道に迷ってしまったら、羊はどうなるのでしょうか。自立心旺盛な羊であったら、自由になったと喜ぶかも知れません。しかし、喉が渇いたとき、自分で水場を探し出すことができるという保証も、飢えを感じたとき、力尽きてしまう前に草原を見つけることができるかどうかも、狼に襲われたとき、誰か守ってくれるのかもわからないのです。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしは、羊のために命を捨てる。」

 羊飼いが命がけで羊を守るように、イエス・キリストも羊のために命を捨てると言います。誰から強制されてでもなく、自分から命を捨ててまで羊を愛するのです。羊のために命を捨てるといいます。誰から強制されてでもなく、自分から命を捨ててまで羊を愛するのです。羊の為に命を捨て終えというのは覚悟の問題ではありません。本当に捨ててしまったのです。イエス・キリストは神と心一つにしておられます。その心とは、命を捨てるほどの愛です。その神の愛を、実際に命を捨てることを通して示されたのが、キリストの十字架でした。

私たちの心には誰しも罪があります。それは、神から離れてしまった人の心です。神から離れてしまったときには人を道に迷い、飼い主を失いました。しかし、神は私たちを見捨てませんでした。失われた羊である私たちを求めつづけて、ついに御自分の独り子であるイエス・キリストを世に送られて、私たちをキリストと共に生きる羊として下さったのです。イエス・キリストは、私たちのために命を捨てる、良い羊飼いです。私たちのことをすべて知っておられ、私たちを見捨てず、私たちの歩みを確かな方向に導いてくれる方です。その先には、約束された永遠の命があります。キリストの呼ぶ声に応えるように、私たちはここに招かれています。自分で救いを見い出そうとやっきになっていると道に迷います。おうではなくて、神が私たちを見い出してくださるから、私たちは救われます。わたしはあなたのために命を捨てるとの声を、ひとりひとりが今朝聞きました。そこに神の救いが来ています。その声に応えて、良い羊飼いを迎え入れてください。

 

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7月14日聖日礼拝

               「悔い改めて生きよ」

                                山川明美牧師

聖書箇所:エゼキエル書18:21~29

   

 

 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。

彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

しかし、正しい人が、正しい行いから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行ったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。

あなたがたは、『主の態度は公正でない』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行いから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行うなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

                                              

 

 「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯が浮く」エルサレムでよく語られたことわざです(18:2)。今日の現状、今の悲しみ、苦しみの原因、つまりエルサレムの困窮は、先祖たちの罪の結果を背負わされているのだと考えていたのです。自分の罪の責任を先祖になすりつけるのです。しかし主は、「とんでもない。各自は自分の罪によって滅びるのだ」と言われます。「自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する」のです(18:13)。

だれかの責任したり、言い逃れをする者へ、自分自身の罪の重さと向き合いなさいと、主は言われるのです。自分の罪を認めなさい、悔い改めなさい、そうすれば新しい道は開けます。と言われるのです。

あら探しは訴える者の仕業です。しかし神はあら探しのために私たちの罪を指摘されるのではないのです。自分の置かれている状況を正直に見なさいと言われるのです。罪人の結果は死であることを見なさい……と。

追いつめる者は責める者です。しかし神は、私たちの罪を責めて追い詰めようとなさっているのではありません。むしろ、そこから救い出そうとなさっています。「わたしはなんびとの死をも喜ばない」「あなた方は翻って生きよ」と言われるのです。

当然ながら、親は自分の子どもが崖に向かって進んでいるのに。行ってはならないと言います。死にいたる病にかかっている病人に、病状を告げずに放っておく医者がいるでしょうか。

人類がかかえている最大の病気……それは「罪」という霊的な病気です。肉体の病気は、肉体のいのちを奪うだけですが、罪は、永遠のいのちを奪います。結果は永遠の死です。

危険な状況にあるのに、罪の恐ろしさを告げない牧師がいるでしょうか。昔の預言者も、現代の牧師や伝道者たちも、それを告げるのです。「悔い改めて、生きよ」と。

 

次週礼拝

  宣教:「一つの群れ一人の牧者」ヨハネ10:11~16

                     山川明美牧師

 

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7月7日聖日礼拝

             「開かれた巻物」

                            山川明美牧師    聖書箇所:ヨハネの黙示録10:1~11節

 

 

御使いは「それを取って食べなさい。」と告げました。そしてこのように言ったのです。「それはあなたの腹には苦いが、あなた口には甘い蜜のようだ。」この巻き物は、小さな巻き物と呼ばれているので、イエス様が開いた7つの封印がある巻き物とは別のものです。

 この小さな巻物は、福音を告げ知らせる神様の御言葉を表しています。もともと聖書の中では、神様の言葉は蜜のようの甘い物として表されてきました。詩篇19:10「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、

蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」エゼキエル 3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。それを口にする人々にとって、福音とは甘いものです。それは、神様の愛だかです。喜びを与え、幸せにします。エレミヤ 15:16「 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」しかし、福音は甘さだけではないのです。わたし達が、福音を受け入れて神様の愛と赦しを余すところなく受けるほどに、わたし達の心にはっきりとして来るものがあります。それはわたしたちの小ささ、愚かさ、罪深さです。実に救いを必要としているのでしょうか、どうして神のひとり子が十字架にかからなければならなかったのでしょうか、み言は腹の中で苦く、私たちの罪の深さを浮き彫りにします。苦みを知った者は、貧しさ、反逆を自分の中に見るのです。知らされても尚、その苦みを拒む歩をする者は、神様の愛も赦しもよくわかってはいないのです。愛を赦しを拒む歩を、神を愛すると言う告白をしながら歩むのです。しかし時はもう延ばされることは]ありません。あなたの口は主を誉めたたえますか。

10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」預言は、甘さと苦みを知った者の務めです。

 

 

次週礼拝

  宣教:悔い改めて生きる」 エゼキエル18:21~29 山川明美牧師

 

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